2016年05月19日

『ズートピア』がすごい:テーマ編

『ズートピア』について書く。
先に断っておく。エンディングまで触れる。ネタバレには一切関知しない。書きたいことが多すぎて取り留めなく、だから長くなる。

『ズートピア』は甘くない。
冒頭から牧歌的な感じで始まるかと思えば、主人公ジュディの両親がいわゆる田舎の小市民、「自覚なきレイシスト」であるとのっけから描写される。「ウサギ初の警官になる」という夢を叶えたはずのジュディに突きつけられるのは、自分が「市政方針で小動物の社会進出をアピールするための素材」に過ぎず、それによって職場で疎まれパワハラを受けるという、きつい現実。主人公の相棒(バディ)ニックの幼少期のトラウマ描写も本当にエグい。事件を解決したと思ったら、ジュディの不用意な発言がメディアと世論の暴走を産む。このように子供向けアニメではギリギリじゃないか、と心配になるようなシーンが連続する。驚いたのはドラッグ工場の描写。リアルな「現場感」があって(そして同時に『ブレイキング・バッド』のパロディでもあるから凄い)、アニメなどでの薬物の扱いに厳しいアメリカで良くできたなあ、と感心した。
日本でも『ONE PIECE』がかなりこういう社会問題についての表現についてかなり切り込んでいるが、アニメではオミットされたエピソードもあり(サンジ・ゼフの過去編のアニメ版改変については絶対に許さない)、さらに『ズートピア』の描写はより「直截」だ。メタファーとして置換するのではなく、現実の社会問題を社会問題としてできる限りそのまま表現している。
作品の舞台「ズートピア」は、多民族国家アメリカそのものだ。「様々な動物が仲良く暮らす理想郷」として作られた都市だが、実際は消すことのできない差別意識に支配されている。理想郷(ユートピア)を建造しようとする健全な精神が、ひとつの堕落した都市を産む、、、現代でユートピアを描くということは同時にディストピアを描くことになる。『ズートピア』はタイトルが示す通り、「都市」の物語だ。ひとつの都市=共同体をどう維持していくか、という集団の物語だ。そのうえで、集団のなかで「個人としてどう生きるべきか」、という個人の戦いを描いている。しかし、個人の戦いを通して表現されているのは、個々人が共同体をどう作り「都市としてどう生きるべきか」という大きな問いについての回答なのだ。
『ズートピア』の肝のひとつに、「動物を擬人化するが、サイズは実際の動物に準ずる」という設定がある。ゾウやシロクマのような巨大で強い動物と、ウサギやネズミのような小さく弱い動物が共存しているのだ。それ自体は美しいことだが、明らかな見た目の違い、育った文化や身体的な特徴によって、どうしても生まれる「差」。さらにそこに付随する「ウサギは間抜けで弱い」「キツネは狡賢い」という「種」についての固着したイメージ(このイメージが創作物の中で我々が動物たちに当てはめてきたステロタイプそのまま、というのがまた風刺が効いている)。差別というものがいかに「生まれやすく・消せない問題」かということがきちんと書かれているのだ。
「これ子ども向けなの?子どもにわかるの?」みたいな声もあるだろう。しかし、「わかる」のが大事なのではない。いつかこういう問題に直面する、そのときに「ああ、こういうことだったんだ」て思い出す時が来る。アニメ監督富野喜由季は、「子どもは理解しなくても皮膚感覚的に捉える」として、『ガンダム』に代表されるように子どもには難解とされても背景設定・問題提起のレベルを下げなかった。解りづらくとも現実と真正面から向き合ったこうした作品こそ、いつか子どもたちの指針になると思う。現実は剪定された理解しやすいものじゃない。多面性を失った理解しやすい現実=誰かの作った都合のいい「物語」こそ、危ういのだ。
ここまでなら、この映画は「ディズニーアニメの皮を被った社会派作品」だ。そしてもしそうなら、俺はここまで騒いでいない。違う。アメリカ現代社会を描いていながら、この映画は活劇あり音楽ありの完璧な「ディズニーアニメ」だから物凄いのだ。
ディズニー得意の動物を主人公にした、戯画としての物語。描写はいかに鋭くても、そのファンタジーが底流に流れていることで、エンターテイメントとして充分に(どころか超一流)成立している。アート・シュピーゲルマンがヴィジュアルノヴェル『マウス』でホロコーストの凄惨さをあくまでコミック=エンターテイメントで扱うために、登場人物を擬人化した動物にしたのも一例だが、こうすることで通常エンターテイメントに適さないような痛烈で直截的な描写を可能にしている。
一見これは後ろ向きな緩和策に見える。インパクトのある描写をわざわざ希釈しているのではないか、とも思えるかも知れない。しかしどんなに強烈で大切なメッセージも、伝わらなければ意味がない。エンターテイメントとして成立させることで多くの人間の視界に入ることができるなら、そちらの方が重要だろう。また、『ズートピア』では設定を生かし肉食動物・草食動物という対立軸を設けることで、より人種問題と構造を接近させているので、伝えるべきテーマが薄まるどころか深みを増しているのだ。

というところで、続く。
次回は『ズートピア』の設定が、この重厚なテーマをいかにわかりやすく、そしてなによりエンターテイメントとして強靭なものにしているか、という「設定編」、の予定。あくまで予定。



posted by 淺越岳人 at 01:35| Comment(0) | TrackBack(0) | ラグランジュプロジェクト | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。

この記事へのトラックバック
×

この広告は90日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。